小泉八雲の表現する『漂白の旅』は旅人心理の真髄

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こんにちは、ねこじまデス

 

昨日の夜、最近気になっている明治時代の文筆家『小泉八雲(こいずみやくも)』の本を読んだよ〜!

 

 

 

小泉八雲との出会い

先月、通訳案内士試験に向けた、日本地理の勉強中に初めて彼のことを知りました。普通高校までで習ったりする重要人物なのかしら?勉強してこなかったのでわかりません。

 

日本地理において彼について触れたのは本当にちょびっとの時間だったの。

 

「島根県の松江には、小泉八雲の記念館があります。外国人作家ですね。本名はラフカディオ・ハーン。彼は明治時代に日本に来て『耳なし芳一』などの怪談をまとめました。彼が当時の日本について考察した本がいくつもあるんですが、面白いんですよ。」

 

そんなかんじで、ちょろっと講師が触れただけ。だから正直、どこの国の人かも知らなかった。

 

ただね、さいきん無性に出雲のあたり(島根)に惹かれていて、惹かれる理由の一つが彼なんじゃないか、そう思って手に取ってみたのよね〜

 

 

  

『作家の自伝 小泉八雲』

 最初は、異国の人から見た、当時の日本が知りたくて読んでみたいと思った。

 

(私は英語や海外が好きだから、知人からは、日本にそんなに興味や思い入れがないと思われている。だけどそれは全くの逆で、海外からの目線で日本を見ることが大層気に入ってる、そんな感覚なんだよね。)

 

 

そんな理由で手に取ったけど、彼の著書を読んでて、期待通りの感覚は得られなかった。

 

つまり、彼が外国人だからこそ感じる「日本の奇妙さ・面白さ」は、この本ではあまり触れてなかった。

 

 

 

代わりに、触れられてたのは、むしろ逆。

 

全世界、どんな場所にいる、どこの国の人だろうと感じる、共通の感覚について、彼は描写していた。のよね。

 

はっとしたよね、

 

異文化理解、異文化理解っていうけど。まずその前に、人間っていう共通の文化があるんだなぁってことに、思い当たった。

 

そしてその、人間なら誰でも持ってるのかもしれない感覚が、 私の生まれる100年くらい前でも現代の私が共感できる代物であることに、びっくりした。

 

 

 

小泉八雲の書く『漂白の旅』

とくに、彼の『亡霊』というタイトルの文章のなかでふれられてる『旅』というものの感覚が、本当に秀逸だと思った。

 

思うに、生まれ故郷を離れて旅したことのない人は、亡霊というもの知らずに一生を過ごすのではないだろうか。

 

しかし漂泊の旅人は、亡霊をよく知ってるようだ。漂白の旅人というのは、文明人のことである。

 

引用:「作家の自伝82 小泉八雲」

 

私はこの章がとってもとっても気に入ってしまったので、以下に引用を載せてみる。

 

私の友達の旅人気質のみんなにも読んでもらいたいな〜、くらいの理由で今日はブログを書いてる。

 

 

 

うちに潜んだ生まれつきの性が、たまたま自分の属してしまった社会の安逸な状況に溶け込めない。

 

そのような人は教養も知性もありながら、わけもなく奇妙な衝動の虜になっているに違いない。

 

その衝動は抗いきれないほど圧倒的で、しかも世俗的な欲望をことごとく蹴散らしてしまうことに、本人自身も戸惑ってしまうのだ。

 

引用:「作家の自伝82 小泉八雲」

 

私が思い浮かべる旅好きのあの人もあの人も、この感覚をわかってくれる気がする。

 

私の場合はここまで強い衝動を持って旅に出るわけではないんだけど、自分の中の放浪への欲求って、たしかにそう。「たまたま自分の属した社会に溶け込めない。 」

 

 

 

調べれば、小泉八雲は、ギリシャ生まれ、アイルランド育ち、アメリカに単身で移り住んで、アメリカの出版社の派遣で日本にやってくるわけで。

 

彼も生まれた国、育った国、働いた国、今まで居た国々で、社会に馴染めなかったのかな。

 

 

 

 

理由なき別離、自暴自棄、突然の孤立、そして、愛着のあるすべてのものからの不意の断絶。

 

ここから、漂白の旅人の履歴は始まるのだ。

 

引用:「作家の自伝82 小泉八雲」

 

 

ああ、最初に感じる何とも言えぬ胸の高鳴り。初めて訪れた街は、何と輝かしく美しく見えることか。見知らぬ通りがすべて、思いもよらぬ希望へと続いてるような気がしてくる。影さえも美しく、見慣れぬ建物が金色の光を浴びて微笑みかけ、素晴らしい先触れのように思える。

 

土地の人々との暖かい出会い。異邦人でいるかぎり、人はいい面だけをこちらに向けてくれる…。それでもなお、すべては心地よく、ほのかな輝きに満ちている

ー街や人への想いは、淡い色合いのぼやけた写真のように柔らかでやさしい。

 

ところがしばらくすると、まわりのすべてのものがしだいに、細かなところまではっきり見えてくる。幻影を貫き、さらには幻影をかき消して、輪郭は日毎に堅く尖っていく。この憂鬱な日々が続く間に、足は舗装のでこぼこした感覚を覚え、建物のかけた壁面や、人々の顔に刻まれた苦難の皺がまぶたに焼きつく。そうなってしまうと、耐えがたいほどの単調さに苛まれ、変化のなさにいたたまれなくなってくる。

 

引用:「作家の自伝82 小泉八雲」

 

旅って、このころから、私の生まれる100年前から、本質は変わらないものだったんだなぁと知ってびっくりする。

 

初めてみる街は本当に美しいし、

自分が旅人である街に住まう人は優しい。よね。

 

だけどその街の内側に入り込んで初めて、よそ者じゃなくなったころに、いろんな部分が見えるようになってくるんだよね。

 

こういう感覚が、国を超えて、時代を超えて、いま私が読んでも共感できるものであることに驚いている。

 

 

 

もちろん、全部が全部いまの感覚と同じわけではなくて、例えばそのひとつが旅立ち。

 

出立のときは、身を切られるほどに辛い。汽車や汽船が、街との絆を断ち切って離れ去る時、かつて感じたあの心象が、一瞬、ひりひりと胸をよぎるだろう。

あの胸の高鳴りをあざ笑うのではなく、ここに居て欲しいとそっと優しく懇願するように。

 

しかし二度とその街並みを見ることはない。夢の中を除いては。

 

引用:「作家の自伝82 小泉八雲」

 

その街を離れることは、私の生きる今の時代とは比べものにならないくらい、強烈で、ほぼ絶対の別離を意味してるんだなぁと、この文章でひしひしと感じた。

 

そりゃそうだ、国から国に渡るには、船で何日間もかけて、たまに死と隣り合わせになりながら、旅するしかないんだもんな。

 

でも一方で、世界は近く・狭くなってきている今とて、その土地を離れる時に本当に悲しいことが、よくある。多分100年前の身が切られるほどの痛みではないんだけど、私はいつも、どこかさみしくて、切なくて、感傷的になる。

 

 

 

 

この本に書かれてる『旅』は、遠い昔の、今よりもっと世界が広くて未知で、もっと街と街が遠かった時代のことなんだけど

 

今、にわか旅人の私が読んでも共感してしまう感覚ばかりだった。

 

  

 

なにより、表現が本当に綺麗で、私は引用文を書きながらも惚れ惚れとしてしまった〜。

 

 

 

ちなみにこのあと、なぜ『亡霊』というタイトルなのかがわかる部分がくる。

 

彼が言うには、今までの旅路で会った人々の混ざり合った顔が亡霊として、旅する自分についてきているらしい。

 

私はその部分はあんまり共感できない感覚だったので、引用しないでこの辺で終わりにします。

 

 

 

気になる人は、ぜひ読んでみてください!(中古だと300円代であります)